修羅道上等

ブ チ 切 れ た \(^o^)/

ありがとうございます。

なにやら読んでくれてポチしてくれた人がいたようだ
と言う事は、薄らぼんやりとわかっていると思う。


けれどもそれ以上の機能への理解を深める余裕が今はないのです。すみません( ;∀;)
その内落ち着いたら色々としていけたらなぁ…と思うので、今はお礼だけ言わせてくださいませ。


あざーっす!( *´艸`)




今日はローンの最終手続きやら何やらで銀行へ。
もはや何のサインをしているのか分からなくなってきたわけだが、まぁ何とかなる。
人を見る目だけはそこそこあるつもりだから、それなりに信用できそうな人には丸投げしておけば大体上手くいくのが世の中だと思っている。


世の様々な人々よ、それなりに真面目に働いてくれてありがとう!
私はニコニコしておくので、良きに計らって頂けるととても助かる事この上ないです。ありがとう!



私がすべき事は、とりあえずは引っ越すその日まで現状に耐える事だと思っている。
毒親さんの存在に耐え、休みの日がまともに休めない現状に耐え、今後の不安とか何か漠然としたそんなものに耐え、



未来にwktkしておく事こそが我が使命


それ以外の事など必要ないのですよ。




まぁ、実際は全く考えていないわけではないが…
さっさとローン返してしまいたいし、資産運用するか、副業するか、なんかするかとか何とか
まぁ現状でも余裕をもってローンは返済していけるプランなので、何とかなりはするが、支出の見直しや生活の見直しは深層意識で意識していなくはない。



でもまぁ、寄生虫とかしている毒親をとりあえずは切り離せるので、支出とストレスの軽減は未来には確約されているのだ。




毒親=逃げて
ってのは、よく見る方程式だが、その方程式を安易に提案出来るのは他人事でかつ、健康に生きてきた証拠でしかないのだよ。


親と言うものは、子供にとって渇望する存在なんだ。
そして毒親育ちにとって、親と言う存在は目の前のにんじんなんだよ。


そこにあるはずなのに決して手に入らない。
あと少しの距離で手に入りそうなそれに、脇目もふらずに懸命に突き進むしか知らない。


親を持たない存在にとっては、親と言う存在は絵に描いたにんじん。
それともまた違って、毒親育ちにとって親ってのは目の前のにんじんなんだ。


当たり前のよう貰えるにんじんでもなければ、たまにでも一本まるのまま与えられるにんじんでもない。
その匂いだけかがされて、或いはほんの少しだけかじらされて、これが欲しければ走り続けろとぶらさげられるにんじんが、毒親育ちにとっての親なんだ。


それを断ち切ると言うのはね、煩悩を一つ捨て去る行為に近い。



捨てると言う行為はね、手に入れているから行える行為なんだ。
手に入れていないものを捨てることはできない。
出来ることは、諦めると言う事だけなんだ。


だから、下手な逃げ方をすると後悔が残って、傷口として残る。
歪みとして生き様に現れる。


だからねそうならないためには、まずは手足がちぎれても走りに走って、ぶらさがるにんじんを食い尽くすことが必要なんだよ。


己が満足するまで、それはそこまでしてまで手に入れたいものじゃないと実感するまで、食い尽くすことが必要なんだ。


そうしたら、心の底から思えるようになる。
ここまでして、この程度のものは必要ないってねw


そうしてやっと、それを心置きなく捨てられるようになるんだよ。
断ち切れるようになる。




荒れ地の馬車馬ほど、目の前のにんじんに執着するんだよ。
見渡しても他に食べられるものがない。
そうなると、それに縋るしかない。


でも、私は従順な馬車馬でも、賢い馬車馬でもなかったから
にんじんを追う事に嫌気がさして、何度も荒れ地をさ迷って、そのたびに死にかけた。


でもその結果、ぶら下がるにんじんを食い荒らす力を手に入れた。


そうして思いのままにぶらさがるにんじんに食らいついた結果
ぶら下がっていたにんじんは、とても食えたものじゃないにんじんのふりをした何かなのだと思い知ったわけだ。
そして、振り向けばそこに、醜く笑う御者がいたわけだ。


捨てないわけがない。






例え話ばかりで分かりにくいね。
まぁ、明日も早いので今日はこの辺で。